上石原若宮八幡神社

上石原若宮八幡神社のご紹介
御 由 緒
当社は延宝年間(1673〜1681)以前よりこの地に鎮座していたと伝えられています。御祭神は武士の守護神として広く信仰された八幡神・第十五代応神天皇。その皇子・第十六代仁徳天皇を祀る「若宮八幡」の形態を持つ神社です。当社が八幡信仰の系譜に属していたことがうかがえる。 古くから上石原では、大六天・天神(天満宮)が祀られていましたが、 後に牛頭天王・秋葉権現を合わせて奉斎し、 四つの御神徳を一社にまとめた「四社明神」として信仰されるようになりました。
大六天(天の恵み)、天満宮(学問成就)、秋葉大権現(火防)、牛頭天王(疫病除け)という 生活に密着した四つの願いを一つに結び、地域の守護としたこの形態は、 昭和38年(1963)発行の神社本庁『神社名鑑』にも、 全国的に類例のない上石原独自の信仰として記されています。 これは、上石原の人々が自らの暮らしと祈りを結びつけ、 独創的な形で神社を守り続けてきた歴史を示すものです。
御 祭 神
当社では、仁徳天皇を主祭神とし、
末社として大六天・牛頭天王・秋葉大権現・天満宮の四柱を合わせて「四社明神」として奉斎しています。
- 〔主祭神〕仁徳天皇(にんとくてんのう)
明治元年(1868)までは鎮守両社と呼ばれたように仁徳天皇と聖天の二柱であった。
聖天は歓喜天とも言い、インドのバラモン教で最も信仰された湿婆の侍神で仏教に入って守護神となったと伝えられる。聖天は元来仏なので、明治元年の神仏分離令に依って若宮八幡の別当たりし西光寺に奉移した。本体は丈二尺の木像。西光寺が「長谷山聖天院西光寺」と称していることからも、聖天が本尊としていかに重要な存在であったか、そして若宮八幡神社と西光寺が長い間一体であったことがわかります。 - 〔合祀〕四社明神
四社明神は西境内に祀られていましたが、明治初期の神仏分離令により西光寺へ移され、のちに火災で消失。明治四十二年(1909)三月一日に本殿へ合祀されました。
第一殿 大六天(だいろくてん)
第二殿 牛頭天王(ごずてんのう)
第三殿 秋葉大権現(あきばだいごんげん)
第四殿 天満宮(てんまんぐう)…
古くは天満大自在天神と称した、京都の北野天神を宗社とし、菅原道真公没後300年(紀元1200年)に之を祀った。当地では川原山に之を祀りここを天神山と称していた。 - [末社]正一位辰巳稲荷(しょういちいたつみいなり)
同社は上石原の辰巳(東南)方向、川を隔てた西光寺領に鎮座していましたが、天保年間(1830〜1844)の洪水で流失しました。古老はこの場所を「稲荷島(とうかじま)」と呼んでいたと伝えています。七年後の弘化三年(1848)、社は天神山の北東に位置する高台の 押堀(おしぼり)=崖を削って造成した土地 に移され、その後、現在の場所へ遷座しました。 - 明治初期以降は四社明神や天神山の呼び名も次第に語られなくなりました。
本 殿(市指定有形文化財)
本殿の再建は文化4年(1807)とされ、 幣束箱には 「文化四歳丁卯六月十二日 棟梁 杉田石見頭原政永・同喜兵衛」 と記されています。総けやき造りで、板壁には説話を主題とした精緻な彫刻が施され、 江戸後期を代表する装飾性豊かな社殿として評価され、 昭和42年4月11日に 調布市指定有形文化財(建造物第一号) となりました。現在の拝殿は昭和38年に八王子の高橋五郎棟梁により造営されたものです。
出典
- 吉田亮 著『上石原の歴史と鎮守若宮八幡神社』
発行:昭和42年(1967)6月30日(非売品・氏子による編)
例大祭のご案内
【来年(2027年) 例大祭の予定】
来年の例大祭は、 2027年9月20日・9月21日(敬老の日)に開催を予定しております。詳細は、決定次第あらためてご案内いたします。
奉賛会・会員募集のお願い
活動内容や会員募集… 例大祭の企画・運営補助や実施するための組織です。募集内容はこちらへ
※「氏子会」とは異なります。
- 奉賛会とは…上石原若宮八幡神社の奉賛会は、「神社の伝統行事や文化を大切に守りたい」という思いを持つ皆さまによって支えられています。
- 入会資格…個人・法人・年齢・性別は問いません。個人・法人を問わず、どなたでもご参加いただけます。当神社を崇敬し、地域の伝統を共に守ってくださる方を歓迎いたします。
新選組局長 近藤勇について

1. 上石原と近藤勇のゆかり
江戸時代、この一帯は「武州多摩郡上石原」と呼ばれ、新選組局長・近藤勇の生家である宮川家も村内にありました。史料では、宮川家は享保年間(1716年–1736年)に上石原村北部で行われた新田開発に参加し、野川沿いへ移住したとされ、近藤勇(宮川勝五郎)もこの上石原村辻(現在・調布市野水)で誕生しました。宮川家は 上石原若宮八幡神社の氏子として深く関わっており、秋の例大祭では、神輿が村内を巡行し、 当時は雑木林(現在の調布飛行場付近)を抜け、 近藤勇の生家周辺の氏子地域にも訪れていたと伝えられています。 神輿が生家に差しかかると、盛大な接待が行われ、 氏子のお年寄りの方々からは、賑やかで楽しい祭りの思い出が語られていました。
戦争や地域の変遷により、現在は生家跡の周辺が「調布市野水」となり、 調布飛行場の造成によって上石原村は分断され、 当時の面影は少なくなりましたが、 例大祭と近藤勇のゆかりは今も地域の歴史として語られています。
2. 若宮八幡と近藤勇の人格形成
新選組の「誠」の題字が、北野天満宮の「誠の大絵馬」を元字としたことが、北野天満宮の氏子資料に記されています。学問への敬意と誠を重んじる心が、新選組の精神の一端をなしていたことがうかがえます。近藤勇の氏神様である若宮八幡神社には、四社明神の一社として天満宮が祀られ、若宮八幡神社の氏子として育った宮川勝五郎(のちの近藤勇)の人格形成には、こうした多摩地域に根ざした信仰や文化、また天然理心流の教えの一つに、「誠は天の道なり」とあり、少なからず影響を与えたものと考えられます。
慶応四年(1868)三月二日、甲陽鎮撫隊を率いた近藤勇(大名格・大久保剛)が故郷の上石原村に戻り、甲府城へ向けて進軍を急ぐ中、当社には立ち寄らず、村の中心から南方に位置する当社に向かって戦勝祈願の遥拝をしたと伝えられています。
明治以降、時代の移り変わりとともに、近藤勇に関する地域の記録は多くが失われましたが、現在も地域の方々によって近藤勇の幟が掲げられるなど、その縁が大切に受け継がれています。
3. 境内の「凱旋」の碑と宮川家
境内には、明治39年(1906)10月に建立された「凱旋」と刻まれた石碑があります。碑には、日露戦争の時期にあたる明治37・38年(1904・1905)の戦没出征者らの氏名が刻まれており、その中に、近藤勇の実父である宮川久次郎の名も見られます。ただし、宮川久次郎は明治19年(1886)に亡くなっており、日露戦争に出征した人物ではありません。なぜ、すでに亡くなっていた宮川久次郎の名がこの碑に刻まれたのか、その具体的な経緯を示す史料は、現在のところ確認されていません。同様の例として、調布市の布多天神社にある「日露戦争記念碑」にも、宮川久次郎の名が刻まれています。この碑には、日露戦争に従軍し、明治38年(1905)に戦病死した近藤久太郎の名も刻まれています。近藤久太郎は、近藤勇の一人娘・瓊子(たま)と、近藤勇の甥で婿養子となった宮川勇五郎との間に生まれた子で、近藤勇の直系の孫になります。一方、宮川久次郎から見れば、近藤久太郎はひ孫にあたります。
どちらの石碑も揮毫は多摩三筆の一人、中村克昌で、上石原名主の家系にあたり、甲陽鎮撫隊を率いていた近藤勇が名主の家に立ち寄った際に、歓待したと伝えられています。
「凱旋」の碑の建立理由や亡くなった人物の名前を残した経緯や布田天神社の「日露戦争記念碑」にある宮川久次郎の名前が記載された理由を調布市郷土博物館に問い合わせをしましたが、回答は得られませんでした。
近藤勇生誕の地公式HP-観光案内はこちら


境内の様子
神社の雰囲気が伝わる写真を掲載しています。







アクセス情報
住所:調布市下石原3-5-1 最寄り駅:京王線西調布駅(南口)徒歩6分
当社は創建当初より「若宮八幡神社」の社名で上石原村に鎮座し、 古くから上石原の鎮守として崇敬を集めてきました。昭和43年(1968年)の行政区域変更により町名が改正され、 上石原の範囲が再編されます。
それに先立ち氏子、自治会側は数度の話し合いで調布市案に反対、鎮守若宮八幡神社が‘上石原地域外’になるため。然し、当社は上石原のものであり、氏子が上石原である限り問題無かろうと市の説得に応じた経緯があります。
当社は今も変わらず、‘上石原’の歴史と誇りを象徴する鎮守です。
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